北と日記

大学院生の多趣味奮闘日記

勉強は楽しいものなのか

 ロンドンブーツ1号2号の田村 淳氏が、先日、東進ハイスクールの授業を楽しくないと批評し、SNS上で多くのフォロワーの反感を買った。事の経緯は昨年9月23日まで遡る。Webコンテンツ「AbemaTV」の放送において、彼は青山学院大学を受験することを公表した。大学受験まで約100日前という時期だった。発表後、田村氏は順調に受験勉強を進めていた。しかし、センター試験まであと一月という時に成績が伸び悩み、受験のストレスから(メディア談)東進講師陣に対して不満を呟いた。この様子が、Webを通じて配信され、これがパフォーマンスかは別にして、話題になった。曰く、一部の批判では、勉強とはそもそも楽しいものではないという。受験勉強を舐めるなだとか。塾講師や教師の立場にある人間は、この文章から色々考える事もあるだろう。自分の考えは、勉強は楽しいものかという問題と、勉強を楽しむことは、切り離して考える必要があるということだ。

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 以前、家庭教師のアルバイトをしていたことがある。教える相手は小学五年生で、分数の足し算ができないくらい算数が苦手だった。彼の母親は、どうにか息子が勉強に興味を持つよう試行錯誤をしたという話を聞いた。例えば、報酬と罰の効果だ。テストで良い点数をとってくれば報酬を与え、悪い点をとれば罰を与える。つまり報酬や罰を外的要因とする外発的動機づけだ。これに対して、当人が自ら机に向かうようなことを内発的動機づけという。前者は、外的要因を無くせば持続しないが、後者は外的要因とは関係がない。家庭教師として生徒に算数を教える時に、自分が意識したのは内発的動機づけを鍛えることだった。家庭教師や塾講師、学校の先生にとっても、大半が同じように意識するだろう。この目標を満たすためには、色々な手法がある。ふと考えるのは、目の前に飴をちらつかせて勉学に励むよう促すやり方は、勉強のとっかかりにはなっても長続きしないのではないかということだ。しかし、場合によっては飴を見せなければ意欲が内面化されない場合もある。授業を面白く見せるというのもその一環である。

 果たして、教え方はともかく、生徒に対し、勉強に没頭する瞬間を一度でもいいから経験させたいという自分の教え方は、そこそこ上手く言ったように思う。彼は算数のテストで低得点をとることが常習化していて、自分でも覆せないと思いこんでいたから、その考えを打ち壊したかった。ある日の算数のテストで、彼は今までの平均よりも60点以上も高い、90点をとった。それなりに正しいやり方で時間をかければ当たり前に点数がとれるというのを知れば、今後自分の力で勉強する良いきっかけになるのではないか。逆に考えれば、自分が家庭教師としてやれることとは、ただそれだけだった。いつかいなくなる人間が生徒に与えるのは、一過性の得点よりも内発的な意欲方が喜ばれるだろう。東進ハイスクール等の予備校教師のように、大勢の生徒相手に何年も教鞭をとっているようなベテランではないので、たまたま上手くいっただけかもしれないが。

 テストで過去最高得点をとり、(おそらく)親に褒められただろう彼は、その際に勉強の楽しみを見出したかもしれない。親に褒められることは外的要因であるが、自ら学習を行うきっかけとなる可能性がある。その推移は、実際に自分が中学生の頃に体験した。いつか、彼くらいテストの点数が低く、勉強を頑張らなかったことがあった。勉学に対して不摂生な生活は、中学初年度のころ塾に通いだしたことで変わった。そこは、何の変哲もない、マンツーマン形式の、駅前にあった学習塾で、大手予備校のように豪華な教師陣も華やかな実績もなく、大学生のアルバイトが勉強を教えているような場所だった。豪華な教師陣はいなかったが、当時流行っていたモンスターハンターに嵌まっているという教師はいた。当時の自分は、勉強の楽しさを知るより先に、その教師と会話をする楽しさの方を知った。真面目に塾に通い、勉強をした恩恵もあった。成績は飛躍的に伸び、偏差値で表せばだいたい50から67まで上昇した。内申点がなかったので、進学校には通えなかったという結果付きで。高校に入学後、自分は再び勉強をしなかった。勉強どころか、部活動もそこで辞めてしまい、何もしなかった。高校生活を無駄に過ごし、いつの間にか三年もあると思っていた大学受験までの猶予は、最早なくなっていた。焦り、思いついたように再び例の塾を訪れた。自分が再び勉強をはじめるきっかけになると思ったからだ。当時いた教師たちは既にその塾にはいなかった。入塾をして受けた授業は、昔自分が受けたものと全く変わらなかった。ただ、なぜか以前のような楽しさは感じなかった。塾で教えてもらうよりも、自分で勉強を進めたほうが捗ったのだ。関心事も、自分で勉強をする方がより満たされた。思えば、自分から塾を訪ねた時点で、既に勉強に対する意欲は持っていたのだろう。高校の初年度で再び勉強をサボってしまったが、カンを取り戻すのは早かった。結局、それ以降一度も塾に通うことはなかった。

 上に書いたことは、外発的動機づけが学習の目標を生徒に与え、内面化していく個人的体験談である。これと似たような過程を実現しようと、教える側は生徒に勉強を楽しんで貰えるように様々な工夫を凝らす。生徒自身でさえそう考えていることがある。先生の教える授業が楽しければ、という思いは、責任の擦り付けのように思えるが、本気の発言であることもある。自分で内発的動機づけを形成するだけの力がないか、或いはそのような経験がないという理由から、教師のサポートを望んでいるという解釈をすれば、この意見は受け入れやすいと思う。これも自分の経験談である。

 しかし、勉強を楽しむことがテストの点を上げるからといって、勉強は楽しいものであるとは限らない。勉強が楽しくないから成績が上がらない、というのは可能性としてあり得ることだが、勉強が楽しくないからやらない、というのはただ言い訳と解釈される可能性がある。今、遊ぶ時間も人との関わりも削り、仕事をしながら終わりのない勉強に励んでいる身からすれば、勉強は苦痛だ。特に、受験勉強や試験勉強は苦手だ。今まで自分のやっていた学習は、勉強ではなかったのだ。同世代の人間たちが、限られた時間の中で恋愛等を楽しんでいるのに対して、自分はいったい何をやっているんだと我に返ることがある。これまでの勉強ばかりの数年間を思い返すと虚無感しか湧かない。勉強に努力を注ぎ込んだ結果賢くなった、というわけでもない。ただ学習は、挫折するまでこの先ずっと続けていくつもりである。決して楽しいからではなく、目標を実現するための手段だからやっているだけだ。或いは、何となく、やらなくてはいけない気がしているからか。世の中にいる大半の研究者が、勉強は楽しいという考えを持っていると、自分はそうは信じない。だから、いつか塾講師のアルバイトをしていて、生徒が標題の質問をしてきた時に、はっきりと「楽しくない」と答えてやった。別に、嘘をつく必要はないのだ。楽しくなくても自分みたいに勉強している人は確実にいるのだから。ただ、勉強を楽しむことに関しては、そうするに越したことはないと思う。

 教職者にとって、勉強は楽しくないものだと断言することは、ベストアンサーではないだろう。問題発言として受け止められかねない。そこに、一言付け加えをすることで、言葉が少し柔らかくなるかもしれない。典型的な答えを考えるのならば、勉強は楽しくないものだが、やらないといけない理由もあるということだ。例えば、勉強をしておけば後々困らないとか(正確には、困らないという可能性を得ることができるだけ)。勉強は義務であるから嫌でもやらなくてはいけない、諦めろ、だとか。自分は教職者ではないので、好き勝手に発言することができる。自分の答えは、勉強は色々な意味でやらないに越したことはないのだと言っておく。

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